niwakaの“あくまで個人の感想です。”

その名の通り熱しやすく冷めやすい"niwaka"が、徒然なるままに色々なことを書き散らします。

バイバイ、エンジェル


バイバイ、エンジェル (創元推理文庫)バイバイ、エンジェル (創元推理文庫)
(1995/05)
笠井 潔

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 時は1960年前後の12月――。
 20年前に行方不明になった男から、「裁きは行われるだろう」と、私刑を予告するような手紙が中年の女性の元に送られてくる。翌月、その予告どおり、中年の女性の死体が自室から発見されるが、その死体には、あるべき所に頭部がなかった。

 事件を捜査する警察と、自身の推理で事件解決を試みんとする、語り部でもある警視の娘との間で、「実存的自己還元」としての現象学を目指し、事件を解決するのではなく、現象学によって事件の解体と考察を試みんとする日本人、矢吹駆は、事件に何を見出すのか――。

 以下、ネタバレ含む感想。



 矢吹が作中で語られるとおり、様々な事件は大きく2つに分けられる。「自らの欲を満たすための事件」「憑かれた観念を正当化するための事件」だ。そして事件の真相は後者である。

 思想、政治、宗教。あらゆる「観念による犯罪」は、古今東西、いつでも、どこでも、更に虚実も差別することなく起きている。しかし、「観念」には罪もあれば功もある。観念による「犯罪」をこの世から一掃することは、その観念による「芸術」も一掃することになり、ゆえに、「人間」である限りは観念による犯罪は無くならないと矢吹は言っている。

 犯罪者に憑いた観念を、矢吹は「悪魔」と称した。ミステリ好きを公言する者なら、「悪魔」を「憑き物」と言い換える者もいるだろう。憑き物と言えば「憑き物落とし」――そう、古本屋の主、中善寺秋彦である。彼もまた、犯罪者に罪を犯させた「概念」を解体することで、事件を考察している。

 だが二人には相違点がある。中善寺の周りには人と物があるのに対し、矢吹の周りには必要最低限の人と物しかない。
 事件への一貫した立場も異なる。中善寺は、自分が関わることで起こる悲劇を望まない。だが矢吹は、自分の関心に沿って事件を考察し判断し、事件の方向性によっては、関係者に苦渋の選択をさせる立場に追い込むこともする。

 まだ『バイバイ、エンジェル』を読んだだけなので、感想はここで一旦終わらせることとする。私の中ではこの時点で、矢吹は事件を解決する「探偵」ではなく、現象学を実践する者――行動する「哲学者」となっている。ゆえに、あらゆる剰余を纏って日々を暮らしている人間にとって、矢吹駆を真に理解することは難しい。だが、矢吹が論じる「現象学」は、現代にも通ずるであろうとは思う。
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テーマ:ブックレビュー - ジャンル:小説・文学

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