断片
思ったこと、思いついたことを書き留めておくためにトップに置いています。
こんなことを書いています。 ↓
"The usual devil seduces with money. Top-ranking devil seduce with love and justice."
「二流の悪魔は金で誘惑する。一流の悪魔は愛と正義で誘惑する。」
『外交 ―― 知的で、平和的で、かつ比較的安価な、国家間における 戦争 の一形態。その最も真逆な行為が 武力行使 。』
『「理想」は飢えた人々を魅了する、甘美な果実である。しかし足が早く、気がついた時には変質しきっている。』
こんなことを書いています。 ↓
"The usual devil seduces with money. Top-ranking devil seduce with love and justice."
「二流の悪魔は金で誘惑する。一流の悪魔は愛と正義で誘惑する。」
『外交 ―― 知的で、平和的で、かつ比較的安価な、国家間における 戦争 の一形態。その最も真逆な行為が 武力行使 。』
『「理想」は飢えた人々を魅了する、甘美な果実である。しかし足が早く、気がついた時には変質しきっている。』
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"魔境"
某日、某所で聞いた僧侶の説法を思い出しながら入力。
禅宗においては、「魔境」という境地――つまり状態ですね――の概念があります。
これは人によるので一概には言えませんが、例えば、修行者が修行をしている間に、素晴らしい感覚を感じたり、大いなる光や存在、御仏を見たりすることがあります。それに対して彼らが、これらを感得――簡単に言えば得ることです――した自分は素晴らしい人間なのだという全能感や大悟――悟りを開いたと感じることです――を感じてしまうこと、これを「魔境に陥る」と表現するのです。辞書には「人を誘惑して逃れられなくさせる場所」という解説がありますが、まさにその通りで、魔境に陥った時点で修行をやめた修行者はその後、その状態から抜け出せなくなり、多くは尊大な人間のまま、余生を過ごすことになります。
臨済宗では「仏を見たなら仏を殺せ」なんていう物騒な言葉がありますが、要は「それは夢幻なのだから、心を動かすことなく受け流しなさい」ということなのです。
この「受け流す」ことが大事なんですね。何事にも心を大きく動かされることなく、己をしっかりと保って日々を生きることに努める。つまり、一日一日をしっかりと生きることそのものが修行なのです。そのため、修行は永劫に続くのです。
これは皆さんも同じなんです。
御仏や僧侶への盲目的な崇敬、啓蒙的な本を読んだり話を聞いたりして、悟ったと感じること。
より身近なものなら、単純な正義感から、愛情、嫉み、妬み、怨みといった色々な感情。
脳科学では、これら感情の発生は単純に、ドーパミンやセロトニン、オキシトシンといった脳内ホルモン、脳内麻薬の作用なんだそうです。麻薬ですよ。つまり、感情のままに動いている状態、感情に支配された状態もまた、「魔境に陥っている」状態なんだと、私はそう思います。
誤解しないでいただきたいのは、私は感情を否定してはいません。感情は大事です。ですが、それに飲み込まれてはいけない、ということです。
感情に飲まれていると、普段は気付けることにも気付けないようになります。そのために起きた悲劇が、毎日ニュースで流されます。
悲劇を起こさないために、感情は大事にしつつも、それに飲み込まれることなく冷静に受け流す。そして、己をしっかりと保って日々を生きることに努める。これは皆さんにも、誰にでもできますが難しい、だからこそ修行なんですね。
皆さんが修行に努め、日々を何事もなく過ごせるように祈念致します。ご清聴、ありがとうございました。
禅宗においては、「魔境」という境地――つまり状態ですね――の概念があります。
これは人によるので一概には言えませんが、例えば、修行者が修行をしている間に、素晴らしい感覚を感じたり、大いなる光や存在、御仏を見たりすることがあります。それに対して彼らが、これらを感得――簡単に言えば得ることです――した自分は素晴らしい人間なのだという全能感や大悟――悟りを開いたと感じることです――を感じてしまうこと、これを「魔境に陥る」と表現するのです。辞書には「人を誘惑して逃れられなくさせる場所」という解説がありますが、まさにその通りで、魔境に陥った時点で修行をやめた修行者はその後、その状態から抜け出せなくなり、多くは尊大な人間のまま、余生を過ごすことになります。
臨済宗では「仏を見たなら仏を殺せ」なんていう物騒な言葉がありますが、要は「それは夢幻なのだから、心を動かすことなく受け流しなさい」ということなのです。
この「受け流す」ことが大事なんですね。何事にも心を大きく動かされることなく、己をしっかりと保って日々を生きることに努める。つまり、一日一日をしっかりと生きることそのものが修行なのです。そのため、修行は永劫に続くのです。
これは皆さんも同じなんです。
御仏や僧侶への盲目的な崇敬、啓蒙的な本を読んだり話を聞いたりして、悟ったと感じること。
より身近なものなら、単純な正義感から、愛情、嫉み、妬み、怨みといった色々な感情。
脳科学では、これら感情の発生は単純に、ドーパミンやセロトニン、オキシトシンといった脳内ホルモン、脳内麻薬の作用なんだそうです。麻薬ですよ。つまり、感情のままに動いている状態、感情に支配された状態もまた、「魔境に陥っている」状態なんだと、私はそう思います。
誤解しないでいただきたいのは、私は感情を否定してはいません。感情は大事です。ですが、それに飲み込まれてはいけない、ということです。
感情に飲まれていると、普段は気付けることにも気付けないようになります。そのために起きた悲劇が、毎日ニュースで流されます。
悲劇を起こさないために、感情は大事にしつつも、それに飲み込まれることなく冷静に受け流す。そして、己をしっかりと保って日々を生きることに努める。これは皆さんにも、誰にでもできますが難しい、だからこそ修行なんですね。
皆さんが修行に努め、日々を何事もなく過ごせるように祈念致します。ご清聴、ありがとうございました。
『国際学力調査 日本 課題の読解力で15位 前回より下がる』 (NHK)
国際学力調査 日本 課題の読解力で15位 前回より下がる
世界各国の15歳の学力を測る国際学力調査の結果が公表されました。日本の子どもは科学と数学はトップレベルを維持しましたが、課題とされている読解力は前回より低い15位でした。専門家は「今の学校は英語や道徳など新たな課題が山積し、読解力の育成が難しくなっている」と指摘しています。
そもそも読解力――「読み解く力」とは何なのでしょうか。
辞書を引くと「文章を読んで、その内容を理解する能力。」と解説されています。「理解する」とは「物事の道理や筋道が正しくわかること。意味・内容をのみこむこと。」と解説されています。
「SNSなどによる短文のやりとりが増えたことを要因の一つとして挙げた。そのため、長文を読み書きする機会が減少しているという。」という文部科学省の分析を載せた新聞記事もありますが、短文は、言い換えれば要約――時間や字数などで制限された狭い範囲で伝えたいことのまとめです。言ってみればニュースも新聞記事も同様に短文の羅列です。
では、原因の一つと指摘されている「SNSの短文」は、それらとどう違うのでしょうか。
SNSはコミュニケーションツールの一種です。なので場合によっては、会話と同じくらいに反応にスピードを求められることがあります。また、スマートフォンのように小さい画面では、一定以上長い文章を読むこと自体、目への負担が大きく読み終えるのに時間がかかります。そのため、卓球のラリーのようにやりとりをテンポ良く進めるために、短文化の先――文章の「単語化」または「記号化」が求められるようになります。
それ自体は珍しいことではありません。電報の「ハハキトクスグカエレ」やポケベルの数字を使った連絡など、事例はいくらもあります。しかし、現代では通常の単語の他、絵文字やスタンプ、自作の略語など多様化しています。また、これらには複数の意味が内包されるため、その内容は更に漠然としたものになります。そしてそのやりとりをテンポ良く進めるためには、読解力ではなく直感力――相手の意図を察して回答する力が求められます。これはもう文章のやりとりではなく、イメージのやりとりです。
イメージのやりとりはSNSだけではありません。広告やコマーシャル、スローガンからプロパガンダまで、最小の語彙で見る側のイメージを増幅させて効果を出すこの手法は一般的に使われています。しかし、語彙が最小だからこそ送信者が意図しない方向にイメージが増幅される人もいて、そういう人は差別だなんだと過剰なクレームをつけてきて、それがニュースになるわけです。この流れ、SNSの理不尽な炎上と似ていますよね。
読解力を鍛えると、発言者や発信者の真意を読み取ることができ、不要なトラブルを避けることができるようにもなります。「愛」や「正義」などといった良きイメージが多用される発言が、よく聞くと実は矛盾だらけで自分がどれだけ偉いかをアピールするだけの文章だったり、利益を得られることを謳った広告が、よく読むと詐欺や法律に違反している内容だったり、そうしたことに騙されにくくなるのです。
読解力の向上に必要な要素として、よく「語彙力」「要約力」「思考力」の3つが挙げられます。
語彙は単語の総体
つまり「語彙力」は、「どれだけ単語を知っているか」
要約は文章の中心
つまり「要約力」は、「どれだけ文章の中から重要な箇所を拾えるか」
思考は考えること
つまり「思考力」は、「どれだけ書かれた内容について考えられるか」
特に思考力――考える力は、余裕がなければ鍛えられません。余裕とはゆとり、ゆったりとできる状態、マイペースを保てている状態です。特にSNSを使ったコミュニケーションから生まれる問題は、発信者と受信者、共にこうした余裕が持てないことに起因があるかもしれません。
何かに囚われていると考えられません。何かは「時間」「趣味」「仕事」「人間関係」「思想」なんでも当てはまります。それらを一旦忘れて、ぼーっとする。そうしていると、「なんでこんなことをしているんだろう」とか「なんで私はここにいるんだろう」とかを考えるようになります。これが思考力の「種」です。これを育てて芽吹かせ、成長させる水や肥料に相当するのが「情報」です。情報は、ニュースでも新聞でも、専門書でもSNSでも、小説でもマンガでも、至るところにあります。でも情報には質が良いものも悪いものもあり、それらを見分けて良いものを選択しなければなりません。その選択をサポートするのが「語彙力」と「要約力」です。
多くの情報の中から、語彙力で「わからないもの」を「わかるもの」に変え、要約力で必要なものを拾い集め、思考の幅を広げる――思考力を鍛える。これらを総合したものが「読解力」なんだと、私は考えます。